header

トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS

一つ上のページに戻る

「ませ、まぜ(間瀬・馬瀬・真瀬・柵木等)」系名字、地名メモ


目次:


名字へのこだわり

誰でも自分の名字は気になるもののようです。特にそれが比較的珍しい名字であれば なおさらです。私は「間瀬(ませ)」という名字を持って生まれたばかりに、子供のころは亊あるごとに恰好 のからかいの的になりましたから、なおさら自分の名字が気になっておりました。

もう一つ気になった理由 として、父の出身地である『愛知県半田市亀崎町(及びその周辺)には間瀬姓がやたらに多い』こと、他方で『全国 各地に間瀬という地名』があることがありました。更には『赤穂浪士に間瀬久太夫・孫九郎という親子』が、『会津 白虎隊に間瀬源七郎』という人物がいたこと等があげられます。このページの目的は、私のように自分の名字 に拘っていらっしゃる(であろう)全国の「ませ、まぜ」さん(最多姓の間瀬でも平成11年度時点で推定全国に 7千人)に、自分の名字を再認識して頂くこと、そして皆さんがお持ちの情報を交換する場を提供することです。

以下は主にインターネット経由で私が調べたものをまとめたもので、元記事情報の正確さやそれから得られた 結論(めいたもの)について保証はしかねます。多くのホームページから引用させて頂きましたが、逐一出典を あげることは不可能です。もし問題がある場合はご指摘ください。なおここに記載した情報は、インターネット で「間瀬」等のキーワードで検索することにより殆んど得られますので、元記事に当たってみてください。

このページのもう一つの目的は、インターネット(さらには電子電話帳等の電子媒体)の普及が始めて可能に した全く新しい可能性を紹介することです。自分の名字の由来等という極めて個人的な興味に対しても、現在の インターネット環境(特に google 等の検索エンジン)が、机の前に座ったままで、是迄なら一生かけても不可能 だったと思われる豊富な情報の入手を可能にしています。

ここに紹介した話題に付いてご意見、情報をお持ちの全国の「ませ、まぜ」さんにお願いです。ご先祖の出身地、 ご親族から聞いた名前のいわれ等の情報を、間瀬

   maseshigeru@yahoo.co.jp

(スパム対策のため全角文字にし空白をはさんでいます) までお知らせ くだされば幸いです。僅かな情報も沢山集まれば(マセさんだけに意味のある)「ませ、まぜ」姓の由来をさらに 解明する糸口になります。

なお、名字調査に関して、常に問題となるのは明治の国民皆姓制度の施行以前は日本人の多く(一説には約7割と いわれています)は名字を持たず、明治になって「適当に」名字を選んだとされることです。実際、名字に関する 著作には、当時出鱈目に名前が付けられた逸話(例えば全村魚に因んだ名字を付けた村)が面白おかしく紹介されて います。確かに、全国で数例、数十例という希少姓の場合、そうしたいわば「適当に付けられた」名字である可能性が 高そうですが、そうした名字を名乗る方の人口比は圧倒的に小数です。

結局現存するある程度一般的な名字は、一度 歴史的に確立した名字を伝えていると思われ、たとえ明治の国民皆姓制度の施行の際も、名字を持たなかった人達 は勝手に居住地名等を名乗ったのではなく(以下の調査結果でも、地名と名字の分布はほとんど無関係です)、既に 名字として確立したものを選んだ例が殆んどだったのではないのでしょうか。更には、明治以前は一般庶民は名字 を持たなかったという通説にも、地方史の研究者から異論が提出されることがあるようです。

つまり、当時も一般 庶民が非公式にせよ、名字(屋号といえなくもないですが)を名乗っていた例が文献に見付かるそうです。またたとえ 名字を持たなかったとせよ、もし名字を名乗るなら迷うこと無く選択した(したかった、すべき、せざるを得ない) 名字があった例が多かったのではと、私は推測しています。例えば、当時も名字を持っていた有力親族・領主、 居住地の神社仏閣、に関係の深い名字等です。そうでなければ、それまで無かった名字を選ぶという高々数世代前の 出来事を、祖父母等から聞いた一族の特筆すべき事件として記憶にとどめている方が非常に少ない事実が説明しにくい のではと思うからです。

一方、真の希少性の場合、名字のいわれを親・祖父母から聞いている例が多い(?)ようです。 私の場合、明治45年生まれの父親は、なぜ知多半島の漁師・船乗りであったらしい先祖が、とくに間瀬という名字を選んだ のか、いわれを一度も聞いたことが無かったようで、講談好きの先祖が贔屓の赤穂浪士の名前を取ったのでは、という 珍説を私に披露していました。この「家族のフォークロア」では、半田市一体に間瀬姓が集中している事実を説明でき ないことはもちろんです。

ませ、まぜ(間瀬・馬瀬・真瀬・柵木等)系名字、地名の由来に関する私見

  • 地名としての間瀬は本来狭隘な谷間を意味する古語「間瀬」に由来すると地名辞典にある。そうした地域 を発祥の地とし、木曽氏の一族を称した越後(新潟県岩室村間瀬付近)もしくは信州由来の武士集団が、戦国時代 三河の松平家の家臣団に加わり、徳川幕府の成立ともに主に尾張徳川家及びその支藩に下級武士として分散する。 愛知県に集中する間瀬姓はそれらの子孫及び、子孫に縁の深かった地域の住民が明治時代に新姓として採用した ものか。
  • 一方主家の廃絶・改易(結構頻繁にあったらしい)等に伴い全国に移動した間瀬氏を祖とする一族(赤穂藩・ 会津藩の間瀬家はその例か)の一部が今に子孫を伝える。
  • 新潟県西蒲原郡岩室村間瀬を中心とする多数の間瀬(まぜ)に因む地名、そして越後随一の神社である弥彦 神社の成立伝承に登場する地方豪族らしい「間瀬の安麻瀬」の存在、9世紀に創建とつたえる岩室村の海雲寺と いう元真言宗寺院の開祖「間瀬入道海雲」の存在、江戸時代の文献に見られる越後在住の間瀬姓町民、そして 新潟市の20世帯という東海地方以外では突出した間瀬姓世帯の数は、もしかしてここが間瀬姓の真の起源の地では という想像を可能にしますが、もとより確証はありません。
  • 隠岐島に残る平家の落人伝説を伝えるという間瀬一族(西ノ島町8世帯)は、三河間瀬以前の間瀬の子孫で ある可能性があるかもしれません。
  • 地名としての「真瀬・眞瀬」は本来「間瀬」と同じで、異なった漢字表記か。「馬瀬」は奈良時代にまで 遡る官馬の放牧場(の柵)を意味する古語である「柵、柵木」(ませ)に由来する可能性があるか。間瀬、馬瀬等の 地名・苗字は後生漢字表記の際しばしば混同された可能性もある。馬瀬は後に馬背(尾根等の馬の背状地形)と混同 理解された可能性がある。
  • 「間瀬口、間瀬田」等の名字は真の希少姓であり、地名に由来する独立起源を持つか、比較的近世に人為的 に作られた名字である可能性が高いか。
  • 「真勢、眞勢」姓は由来が全く異なるかも知れない(江戸時代の易学者真勢中州等に始まる人為的な姓?)。

「間瀬・馬瀬・真瀬」姓の詳細な全国分布とそれから得られる結論に付いてはページ末尾を御覧ください。

全国の「間瀬、馬瀬、真瀬、柵木」にちなむ地名(古名も含む)

  • 北海道
    • 釧路間瀬村(新潟の間瀬からの移住者居住地)
    • 天塩川水系馬背川(うませ)
  • 青森県
    • 青森市大字浜館字間瀬、中村地域長間瀬、五所川原市梅田間瀬
  • 秋田県
    • 山本郡八森町字真瀬沢、真瀬(ませ)川、真瀬渓谷、真瀬(ませ)岳(988m),
    • 鹿角郡柴平村真瀬川堤塘、百間瀬
  • 福島県
    • 福島市立子山地区 間瀬場山、間瀬場
    • 郡山市田村町金屋字マセ口
  • 山形県
    • 西置賜郡小国町大字間瀬
  • 茨城県
    • つくば市真瀬 昭和27年(1952)当時は真瀬村、旧地名常陸國眞瀬
    • 常陸国筑波郡真瀬(明治13年の郵便局所在地一覧より)
    • 筑波郡谷和原村台字真瀬道(古地名)
    • 茨城県つくば市大字谷田部字真瀬向,字眞瀬向,字マセ向
  • 群馬県
    • 上増田木間瀬(福寿草自生地、県天然記念物)
    • 松井田町木馬瀬(ちませ)
  • 千葉県
    • 関宿町木間瀬
    • 富浦町間瀬口
  • 神奈川県
    • 横浜市戸塚区上俣野馬背田
    • 横浜市港南区笹下町間瀬口
    • 三浦郡葉山町一色字真瀬
  • 東京都
    • 小笠原村父島真瀬
  • 埼玉県
    • 間瀬峠(まぜとうげ):児玉郡児玉町間瀬(まぜ)−秩父郡長瀞町野上下郷長瀞と児玉町を結ぶ峠、陣見・間瀬峠林道との交差点。坂上田村麻呂将軍に追われた大蛇が 峠から将軍をまんじりとみつめたので、まんじり峠と呼ばれ後世間瀬峠とと言い伝えるようになったとの伝承、別名馬背峠
    • 児玉郡児玉町間瀬(まぜ)
    • 児玉郡児玉町間瀬(まぜ)湖(マミズクラゲ生息地、へら鮒釣り、桜)。間瀬湖は昭和12年に間瀬川をせき止めて造られた、かんがい用人造湖。満水時の湖水面積は7万平方メートル、桜の名所で、新日本百景、利根川百景などに数えられている。ヘラブナが放流され、釣り場としても有名。
    • 間瀬堰堤:児玉郡児玉町、昭和12年、児玉用水の水源となる重力式の農業溜池ダム(文化財建造物指定)
  • 新潟県
    • 頚城郡間瀬口村
    • 岩船郡山北町間瀬、西蒲原郡岩室村間瀬:日本海間瀬サーキット場で有名
    • 間瀬下山:岩室村間瀬
    • 間瀬田ノ浦:岩室村間瀬。岩室村は荘園時代、本村の大部分は弥彦の荘に属し、弥彦神社の所領と考えられている。江戸時代の中期以降は、和納の大部分は三根山藩の主軸を構成。間瀬は桑名藩に、旧岩室村は、直領および長岡、与板藩等に分属していた。昭和30年、岩室村、間瀬村が合併して岩室村。昭和35年、和納村が合併し、新岩室村が誕生し、現在に至る。
    • 弥彦神社の縁起。『越後土産』によれば、祭神の天香語山命は、紀伊国熊野の神邑にいたが、神武四年に越後の国をもらって移ってきたという。『温古之栞』その他では、天香語山命は「天鳥船(アマノトリフネ)」に乗ってきて、今の野積である米水浦に上陸し漁労や農耕を、また小浜で製塩を教え、「間瀬にいた安麻瀬」を征伐して、越後を平定したという。
    • 間瀬海岸 (まぜの浦の海女の苅る藻のよりよりに君も問い来よ我も待たなん 良寛)
    • 間瀬漁港
    • 間瀬峠(隧道)新潟県西蒲原郡岩室村新潟県道55号線
    • 間瀬銅山。元禄14年(1701)から採掘が始まったといわれる。最盛期は大正前半で、県内外の人々がどっと流入し、約270人が飯場に住み、間瀬地区に多大な影響を与えた。品質の良い銅を産出し、燕の銅器の原料に使われた。
    • 新潟県に間瀬大工と呼ばれる職人集団がいた
    • 伊能忠敬作地図より。自江戸歴尾州赴北国到奥州沿海図第十八、自柏崎至寺泊及間瀬又三国街道至堀之内 大図。江戸歴尾州赴北国到奥州沿海図第十九、自間瀬至網代 大図。
    • 西頸城郡能生町柵口(マセグチ)
    • 西蒲原郡岩室村海雲寺(かいうんじ)。貞観年間頃(9世紀)に「間瀬入道海雲」によって真言宗寺院として開創。慶長16年再建。
  • 長野県
    • 下伊那郡浪合村蛇峠山馬背山
    • 北佐久郡御代田町馬背口
    • 飯田市上川路2 馬背塚古墳
    • 箕輪町長岡区真瀬口
    • 下高井郡山ノ内町間瀬
    • 下高井郡山ノ内町夜間瀬(よませ)
    • 下高井郡山ノ内町夜間瀬間瀬
    • 夜間瀬本郷地区の中世の領主夜交氏
    • 長野電鉄世間瀬駅
    • 須坂市間瀬口の間瀬口遺跡
    • 夜間瀬川:下高井郡山ノ内町 北佐久郡御代田町馬瀬口(マセグチ)
    • 北佐久郡御代田町大字馬瀬口(ませぐち) 柵口神社という神社あり。柵口神社は「サクグチ」ではなくて「マセグチ」と読む。馬瀬とは馬塞とも書いて、牧場の柵のこと。このあたりは奈良時代に官営の牧場があったので、その地名が残っている。
    • 長野県清見村馬瀬川(馬背川)
    • 長野県飯田市馬背塚古墳(ませづかこふん)
    • 長野県上田市東の宮(馬背神社)、西の宮(馬脊神社)
    • 平安時代に朝廷で定められた「延喜式神名帳」中に記載された信濃の神 馬背神
  • 岐阜県
    • 益田郡馬瀬(まぜ)村。南飛騨馬瀬川温泉がある。山あいの間瀬が転じて馬瀬の郷。馬瀬村は鎌倉期以前に生まれた。「益田郡史」には「竜馬の瀬」から馬瀬になったとある。
    • 木曽川水系 馬瀬川(まぜがわ)
    • 付知町間瀬の溜池
  • 富山県
    • 上新川郡大山町馬瀬(ウマノセ)
    • 上新川郡大山町馬瀬口(マセグチ)
    • 婦負郡八尾町下笹原字間瀬
  • 福井県
    • 古地名 三方郡丹生浦馬背
    • 福井県敦賀市縄間馬背峠(ましょう)、馬背川
    • 婦負郡八尾町下笹原字間瀬
  • 静岡県
    • 天坂の間瀬(まじ)の地名
    • 磐田郡佐久間町中部の馬背神社
  • 愛知県
    • 犬山市大字善師野字馬瀬口
    • 名古屋市内庄内用水「違間瀬橋」
    • 半田市亀崎町(間瀬姓の最大拠点)
    • 知立市上重原町間瀬口、間瀬口川
    • 愛知県阿久比町草木間瀬口
    • 知多市大草間瀬口(ませぐち)
    • 愛知県泉田町間瀬口
    • 愛知県知多市馬背口
    • 一宮市大字春明字南馬背口
    • 愛知県春日井市廻間町字間瀬口
    • 古間瀬城。豊田市志賀町字城山。松平氏が高橋庄攻略の拠点として永正3年(1506)に築城
    • 知多半島の最先端にある羽豆神社の宮司、間瀬正通氏、神社は35代継がれる家系。
    • 愛知県小牧市大字下末字間瀬口
    • 愛知県知多郡 阿久比町大字草木字間瀬口
    • 半田市は江戸時代、市域は尾張藩、犬山藩、寺社の領地であった。市制施行まで知多郡に属していた。古くから酒、醤油、味噌などの醸造業が栄えていた。江戸中期より酒粕を用いた酢の醸造が始まると、江戸のにぎり寿司ブームもあり、樽詰めされた酢は尾州廻船によって江戸にも運ばれた。こうした醸造業の発展は現在の半田市の形成に繋がり、ミツカンなどに代表される日本有数の食品産業の町への基礎となった。
  • 三重県
    • 松坂市早馬瀬(はやまぜ)町(古名、飯南郡漕代村大字早馬瀬: 伊勢神宮斎宮(いつきのみや)付近)、早馬瀬神社。古くは「はいまぜ」という。櫛田川下流右岸の平地に位置する。地名は、参宮官道の駅伝馬、早馬(はいま)に由来すると伝えられる。早馬瀬村(江戸期〜明治22年の村名。伊勢国飯野郡のうち。はじめ鳥羽藩領、寛永10年(1633)幕府領、同12年からは津藩領。)
    • 伊勢市馬瀬町、間瀬島:五ヶ所湾付近
    • 鈴鹿市徳田町間瀬口
    • 伊勢市馬瀬町馬瀬口
    • 三重県大野郡緒方町馬背畑(ませばた)
    • 直入郡荻町馬背野(ませの)
  • 滋賀県
    • 土山町北土山字馬瀬口
  • 京都府
    • 亀岡市余部町真瀬湯
  • 大阪府
    • 泉北郡忠岡町馬瀬地区
  • 和歌山県
    • 下津町馬瀬古墳群
    • 和歌山市毛見字馬瀬
  • 岡山県
    • 間瀬峠:玉野市八浜町波知付近(児島半島の主峰、金甲山が真正面に見える)落合町:昔の備前往来は、旭町友清から下見を通って法界寺地内に入ってくる。橋ヶ谷を渡り、奈良へは現在の町道とほぼ同じ道筋である。奈良から間瀬ノ谷に入り間瀬越えをして、間瀬橋付近におりる。
    • 間瀬橋:主要地方道 落合建部線 の野原地内と旭町乗国地区を結ぶ林道 間瀬線 の起点
  • 島根県
    • 島根県石見町馬背山(うまがせ)山
    • 松江市相生町馬背坂(まのせざか)
    • 松江市上乃木町馬背
    • 島根県隠岐馬背島(うまぜしま)
  • 鳥取県
    • 鳥取砂丘馬背
  • 愛媛県
    • 南宇和郡御荘町(通称 馬瀬ばせ)
    • 伊予三島市馬瀬林道
    • 愛媛県南宇和郡西海町馬背山
    • 愛媛、徳島県境の銅山川ダム馬背谷
  • 高知県
    • 長岡郡大豊町馬瀬(うまぜ)
    • 高知県南国市稲生井川字馬背。馬背古墳
    • 三間瀬。土佐のよさこい節中の文句「三間瀬見せましよ浦戸を明て、月の名所の桂浜」三間瀬という名字も実在する
    • 吾川郡春野町字大間瀬
  • 大分県
    • 大分県竹田市馬背野峠
    • 大分県馬背戸川
    • 大分県直入郡荻町馬背野(ませの)
    • 大分県緒方郡緒方町馬背畑(ませばた)
  • 長崎県
    • 西彼杵郡大島町間瀬(まぜ)東町
    • 西彼杵郡大島町野間瀬
    • 西彼杵郡大島町野間瀬本町
    • 間瀬教会、聖ルドビコ茨木(西彼杵郡大島町間瀬)。昭和32年崎戸炭鉱で働く信徒のために太田尾教会の巡回教会として建立。現在は炭鉱の閉山に伴い誘致された大島造船所関係の職場で働く信徒によって構成
    • 対間瀬:北松浦郡宇久町野方の岬
  • 宮崎県
    • 宮崎県西臼杵郡高千穂町馬背野、小馬背遺跡
  • 鹿児島県
    • 大島郡天城町天城字真瀬名(徳之島)
    • 徳之島 天城町真瀬名川
    • 鹿児島県山川町成川地区にあった古城趾 馬背城
    • 鹿児島県指宿市十二町大間瀬

歴史上の「間瀬、馬瀬、真瀬、柵木」姓 (一部現代を含む)

  • 高須藩間瀬家。岐阜県海津町に藩庁が置かれた高須藩の家臣。「藩士名寄」に尾張藩出身の間瀬名の藩士。高須藩は幕末に京都守護職会津藩主松平容保や京都所司代桑名藩主松平定敬・尾張藩十四代藩主徳川慶勝を輩出した藩。尾張徳川家の分家で、本家である尾張徳川家に継嗣がない場合は相続人を出し、尾張藩主が幼少のときは後見役を勤めていたなど、尾張藩と一体であり、家臣も尾張藩と高須藩の両方に属しているものがいた。
  • 赤穂浪士関係間瀬
    • 間瀬久太夫正明(ませきゅうだゆうまさあき)。 大目付・200石、変名/三橋浄貞、表門隊、内蔵助の相談相手、事件当時63歳、戒名 刃誉道劔信士。父権太夫以来の浅野家家臣。長男はともに討ち入った孫九郎。小野寺十内の従兄、中村勘助のおじ。討ち入りでは半弓を武器とし、内蔵助、原惣右衛門とともに表門に陣取った。生没 1641(寛永18)-1703(元禄16)、出身常陸国笠間(茨城県笠間市)。家系 本姓紀氏。祖父三橋長右衛門は本多豊後守に仕えていた。別称 久太夫・三橋三慎(変名)・三橋浄貞(変名) 官位・官職 備後守・侍従(従四位下)。父間瀬権太夫、母多川九左衛門(浅野家臣)女。父の間瀬権太夫は播磨赤穂藩士で山鹿素行の門人。母の姉が小野寺又八の妻で小野寺秀和の従兄にあたる。
    • 間瀬孫九郎正辰ませまごくろうまさとき)。 部屋住(久太夫長男)、父にしたがった槍の名手、事件当時23歳、戒名 刃火及劔信士、変名三橋小一郎。裏門隊部屋住の身ながら父と行を共にし、義盟に加わった円山会議にも出席。江戸に下向してからは、新麹町で父、中村勘助、岡島八十右衛門らと同居した。内入りでは裏門隊。槍を引っさげて討入り、めざましい働きを見せた。
    • 間瀬定八(久太夫次男)。元禄15年(1702)浪士の遺児吉田伝内・中村忠三郎・村松政右衛門とともに20歳で伊豆大島へ遠島となり、宝永2年(1705)伊豆大島で病死、伊豆大島元町霊園に墓(他の三人は後に許され離島)
    • 後日談:孫九郎、定八は未婚で子供はいなかったが、久太夫の女婿三木団右衛門には男子藤千代がいた。久太夫の妻は浪々の身の娘夫婦とともに江戸で定八の帰還を待ったが、その訃報に接し藤千代に定八の名前を名乗らせ、出羽秋田に赴き赤穂浪士遺児と届け出、秋田土崎港で商人になった。その子孫は明治まで当地で廻船問屋を営んでいたという。当時赤穂浪士に関する詳細は地方にまで伝わっていなかったため、こうしたことが可能であったようである。(この情報は、秋田間瀬定八の御子孫である間瀬一美様より頂きました。)
  • 間瀬權左衛門。享保19年(1734)の「形原松平藩御家中分限帳」(篠山時代の物、家老以下430名余の姓名を記載)中に記載。勘定所。金五両2人扶持。(形原松平家は三河以来の松平諸家の一つ)
  • 間瀬吉太夫。代官。茨城県結城市結城県指定文化財「結城御朱印堀」。御朱印堀は戦国時代末期,結城18代秀康の時代に掘られたと考えられ,堀に囲まれた11か町は「地子御免(じしごめん)」という土地税免除がなされ,その面積は16町9反余であった。1692年(元禄5)代官の間瀬吉太夫が町役人に対して,御免地の権利を証明する文書の有無を問いただしたところ,町役人たちは,結城16代政勝ならびに徳川家康によって地子御免が認められてきたことを記した「結城町内地子御免之事」を提出した。そして,代官がこの特権を幕府に確認すると,幕府より今後も保証するという通書が下付された。
  • 間瀬甚十郎。高松藩士。高松藩士由緒録(高松藩に仕えた家臣が藩に提出した各々の先祖を記述した文書)記載先祖新右衛門,初め公子志摩殿家士,のちに50俵4人扶持奥目附となる。その子藤左衛門,初め大膳様御家頼,のちに留守居番組となる。その子甚十郎・養子,惣領組となる。のちに家断絶する。
  • 間瀬源蔵。京都御名代行列付(御近習頭五百石)。東京大学所蔵小野秀雄コレクション中の「将軍関係」かわら版中に登場
  • 間瀬権右衛門。尾張藩藩士、江戸定府詰め。勝海舟、伊藤圭介と交遊。 伊藤圭介(1803-1901)はシーボルトの弟子でもあり、江戸末期に名古屋が生んだ近代博物学者で日本の理学博士第1号(文久元(1861)幕府蕃書調所に勤務)
  • 間瀬又兵衛。慶安元年に江戸で任命され大坂城に赴任した20人の城付与力の一人。慶安元年に江戸で任命され、大坂城に赴任した人名及びこれ以前の与力名迄明確であり、これらの諸家が明治元年まで、約220年間連綿として世襲。『与力歴譜同附録』にある「慶安元年八月、大坂城付与力被仰付人名」に記載。
  • 間瀬與六。角筆文献 「参河後風土記」、江戸中期写 五十冊:新潟大学附属図書館蔵(佐野文庫):角筆ノ漢字・句切線・注示符:「越後/寺泊/間瀬與六」「越後/寺泊/堀店」「本貞」「越之後列/津羽目/五捧」各黒印アリ、堀氏ヨリ/買入ス」
  • 間瀬伝蔵。尾張藩士。次男日比野白圭(1825-1914)は森高雅に師事し、土佐派を修めた。人物画を最も得意とする。
  • 間瀬和三郎。栃木県宇都宮城主戸田家家老。幕末、岡本新田を開いた江戸商人菊地孝兵衛に関する資料中
  • 間瀬忠至(ませただゆき)。栃木県 宇都宮城主戸田家家臣、藩主戸田氏の縁筋。安永3年(1774)、島原城主戸田忠寛が41代の宇都宮城主になり、7代忠友を最後に明治維新を迎える。嘉永3年(1850)に忠明が13才で家督をつぐが18才で若死、安政3年(1856)に5男、戸田忠恕「とだただゆき」が10才で46代宇都宮城主となる。縁筋の家老間瀬忠至が幼い藩主忠恕を補佐し、借金漬けの藩財政建て直しをはかる。間瀬は後に「戸田」に復姓。
  • 隠岐島間瀬家。西ノ島町誌: 浄土宗地福寺由緒・沿革。隠州島前三十三巡礼札所(元禄7年、1694)の中に三度村堂とあるが、天保御年貢帳によると廃仏前までは「地福寺」と唱えていたようである。ここには、阿弥陀仏外2体の仏像(未見)も祀られているが、元は7体あるいは11体あったともいい、平家の残党が持ってきたものという伝えもある。間瀬、万田両家がその後裔とも言われている。
  • 三星紋。峨源氏渡辺氏流の間瀬氏の家紋。オリオン座中央の三星をかたどった紋であるが、将軍星ともいい、中央を大将軍、両脇(南北)に左右将軍がくるので、三武ともいう。衣服の文様としても用いられ、武家の家紋としても選ばれた。三星紋の上下に一文字を添えた複紋があるが、これは武士が戦場で一番乗り、一番槍などの縁起と結びついたもの。一文字三星は、大江氏出の毛利、永井、岩田、宮川の諸氏が使用。三星一文字は嵯峨源氏渡辺氏流の家紋で広井、間瀬、愛智氏など。
  • 間瀬、称嵯峨源氏。間瀬、三河、称木曾氏族。「名簿図書館」調査。名字に関する代表的文献である「寛政重修諸家譜」ほか数点の資料(逐次追加)を参照してルーツを調査
  • 間瀬権次郎 。亀岡藩家臣。明治四年二月付けの「亀岡藩序列帳」中に記載。亀山五万石形原松平藩御家中分限帳(享保19年1734)中に金五両二人扶持と記載
  • 間瀬九右衛門, 間瀬雄助。刈羽郡柏崎町・内山家文書中に記載。天和3年9月29日 納屋町川除砂除御普請目録 納屋町庄屋間瀬九右衛門外6。文久2年10月7 日 覚(金子預り)星野藤兵衛 間瀬雄助殿 一紙。文久3年8月 預り申金子之事 間瀬雄助 内山市郎左衛門殿 一紙。甲子7月6日 覚(金子預り)間瀬雄助 内山様 一紙。亥大晦日 覚(金子預り)間瀬雄助 内山様 一紙。12月9日 覚(金子受取)間瀬雄助 内山様 一紙。亥12月28日 覚(金子受取)間瀬雄助内山市郎左衛門殿 一紙
  • 間瀬郁馬。下田奉行、第3回伊豆文学賞優秀賞受賞作品『豆州測量始末』山上藤悟著に登場(実在人物かどうか不明、時代設定天保十年、1839年)
  • 間瀬兵衛門。愛知大学綜合郷土研究所所蔵資料図録中の三河国鳳来寺絵図木版墨刷作者
  • 会津白虎隊関連間瀬
    • 間瀬岩五郎(朱雀足軽二番隊中隊頭) 慶応4年8月29日、一千の軍団を率いた佐川総督の作戦中死亡
    • 間瀬源七郎(白虎隊隊士、飯盛山で自刃)
    • 間瀬新兵衛利貞(間瀬源七郎父)
    • 間瀬きよ(間瀬源七郎妹、戊申の役時、若松城篭城中に女児を生む)
    • 間瀬みつ(間瀬源七郎姉、若松城篭城中の記録「戊辰後雑記」著者)
    • 間瀬まつ、つや、ふゆ、ゆき
    • 源七郎は嘉永5年6月14日、若松城下郭内本二之丁に三百五十石、間瀬新兵衛利貞の二男四女中の末弟。色白で容姿端麗、子供の時より小姓役になる。性格は温和で恭謹。10歳で藩黌日新館に入学し、三礼塾二番組に編入される。16歳で会津最高学府止善堂に入学。享年16歳。法名は勇猛院忠誉義進居士。飯盛山で自刃した白虎隊は白虎士中二番隊。明治元年(1868)の戊辰戦争時篭城していた姉ミツが丹念につけた日記(戊辰後雑記)が残っており、篭城中に妹キヨが女児を生んだことや、戦後斗南藩へ移住して再び会津へ戻るまでのことが書かれていて戦争の史料となっている。
  • 神奈川県には幕末に三浦半島警備のため派遣された会津藩士の墓がいくつもあり,横須賀市西徳寺には間瀬源七郎の伯父と祖母のものと伝えられる墓がある
  • 尾張国知多郡史料。亀崎村新々田高并徳米書上、午5月、亀崎村庄屋 間瀬長左衛門他1名。御納戸御役所状
  • 間瀬兵衛門 図 木版墨刷。三河国鳳来寺絵図。愛知大学綜合郷土研究所 所蔵資料図録橘槝
  • 日比野白圭・1825〜1914。名古屋に生まれる。尾張藩士間瀬伝蔵の二男、日比野氏の養嗣となる。はじめ画を竹田景甫に学び、ついで鈴木景山の門に入り、さらに森高雅に学ぶ。尾張における明治大和絵の第一人者。土佐派の画家。
  • 天命地蔵。神前神社の裏山、亀崎城の跡といわれる富士山の崖に祭られている。首から上の病、特に目の悪い人には霊験あらたかと参詣者は後をたたない。この地蔵は、石橋で海運と材木同屋をしていた間瀬作兵衛が京都を訪れたおり、田圃に地蔵が倒れているのを見てもったいないと立て直した処、意外に軽く、これも何かの縁と思い家に持ち帰り、お奉りしたという。その後、現在地にお堂を建てた。
  • 西澤弥兵衛関係文書。鰊絞粕売買契約証書正本{函館区豊川町五十番地住居平民物産商西澤弥兵衛→愛知県尾張国知多郡亀崎町百五十番地平民当時函館区大町十四番地住居仲買間瀬翁太郎。
  • 旧蓬左文庫所蔵史料目録。大久保村御抱屋敷御譲請一巻(安政三〜慶応三年)間瀬権右衛門〔編〕江戸末期写
  • 鯨突きのこと。文禄ですから、秀吉が肥前名護屋に陣を敷いて、朝鮮と事を構えたころです。間瀬助兵衛という鯨突きの名人が、尾州から相模三浦にやって来ました。かれは、沖にクジラの群れの泳ぐのを見て、これは幸いと銛綱などを用意し、さかんに獲り始めます。それまでは、この辺りの海でクジラを突く者がおりませんでした。この間瀬助兵衛を見て、関東諸浦の漁師もクジラを獲り始め、年に百、二百と突いたので、のちには年四、五頭を見るばかりとなった、とあります。一寸の虫にも五分の魂ならば、五十尋百尋あるクジラの魂は如何ばかりならん、と淨心は書いています。
  • 間瀬竹八。山梨県験の歴史:明治7年(1874)栗原信近、間瀬竹八ら興益社を開く。
  • 間瀬正寿。第十国立銀行(現山梨中央銀行)初代取締役 (明治10年4月15日)
  • 間瀬弁五郎。岐阜県白川村助役(明治43年ー大正4年)
  • 間瀬鉦太郎。徳島県立農業試験場第7代場長(大正8年,1919)
  • 間瀬くら。詩人サトウハチローと結婚、二人の娘を設けるが昭和9年協議離婚
  • 『海軍の外交官竹下勇日記』芙蓉書房の在上海第三艦隊慰問旅日記(昭和十二年十月一日)中に総領事館間瀬副領事と記載。次の間瀬武治と同人物?
  • 間瀬武治。アテネ書房の「海軍歴代指揮官名簿」による第二次世界大戦開戦時資料中、第二十二航空戦隊参謀
  • 間瀬平一郎。航空特務少尉 海軍航空隊アクロバット飛行チーム源田サーカス(源田実・間瀬平一郎・青木与、現在の自衛隊ブルーインパルスの前身)の一員。明治36年9月9日愛知県知多郡東浦村森岡間瀬安次郎の三男として出生。大正8年商船乗組員として3年半欧州航海する。潜水学校主席卒業、「ロ15号」に乗り組む。大正14年飛行機乗りとして霞ケ浦に移動昭和4年11月6日横須賀に転勤、飛行機操縦教員となる。昭和7年アクロバット飛行の完成・「空中サーカス」と呼ばれる(当初小林淑人・間瀬平一郎・青木与の三人)「三羽烏」(源田実・間瀬平一郎・青木与)により三機編隊の巴宙返り、編隊宙返り等各地で行う。昭和12年11月8日重要任務を帯び出発せるまま遂に帰還せず。昭和13年2月9日戦死と認定される。昭和13年3月18日遺骸発見される。昭和15年 映画・レコード「大空の遺書」制作される。
  • 間瀬判蔵。昭和33年岩手大学工学部応用化学科新設時助教授、後教授。昭和52年死去
  • 間瀬忠造。関東学生ライフル射撃協会初代理事長(1953)
  • 真瀬宮内。中世の常陸領主小田家文書「小田家風記」に千石取りと記載。小田家領土は筑波郡を含み、つくば市の地名「真瀬」はこれに因む可能性(読者よりの情報)
  • 真瀬将監。遠江国堀江城城主大沢基胤(最初今川氏、後に家康に協力)の家臣、村櫛の志津城を守る
  • 真瀬惣吉。幕末の博徒。栃木県下都賀郡野木
  • 木間瀬策三。富山県第15代知事(大正4.8.1着任)、大阪ロータリークラブ創立会員
  • 世間瀬忠知氏。夜間瀬本郷地区の中世の領主夜交氏の末裔
  • 桝木頼兼氏。京都市長(1996)
  • 真勢中州。江戸時代の易学者、日本三大易聖の一人
  • 曲真瀬勝吉。日本薬剤師会石川県支部の前進金沢合薬株式会社の設立者の一人
  • 二間瀬敏史氏(ふたませとしふみ)氏。東北大学理学部物理学者。
  • 愛知県知多半島の最先端にある羽豆神社の宮司の間瀬氏は35代続く家系

参考

  • 間瀬田家。宮崎県日南市卵焼き屋『間瀬田厚焼本家』。旧飫肥藩士・間瀬田家に代々伝えられた厚焼は初め、一族の祝事などに用いられたが、のち藩内に広まり、城下の庭園で催される花見や月見の宴で殊に上級武家に喜ばれ、藩主にも献上されたという。江戸後期になると間瀬田氏は刀を捨てて城下に「焼処」を設け、家業として厚焼に専念する。
  • 藤沢周平の時代劇短篇小説には間瀬という侍が時折登場する
  • 名前として間瀬、マセを使用した例がある
  • 菓子舗間瀬:熱海市内、創業明治5年、銘菓「伊豆乃踊り子」製造元
  • 英米には Mase (メイスと発音)という名字がある。
  • 間瀬垣(ませがき)。一般名称として間瀬垣とは低く目の粗い垣の総称
  • 間瀬(まぜ)。戦国時代の商船名:都市が発展するにつれて生活物資の流通が増大すると、経済性の高い海運が大きな比重を占めていった。使用された船は帆走性、操櫓性、海底の深浅に応じた船底構造など、地域によってさまざまであった。瀬戸内方面では二形船、弁財船、押回し、九州ではアダテ、伊勢地方では伊勢船、北国地方では北国船、羽賀瀬(はがせ)、間瀬(まぜ)などの船があり、船型や構造はそれぞれ異なった。これに五大力(ごだいりき)、イサバ、猪牙(ちょき)といった小型船を加えるとその種類は相当な数にのぼった。
  • 柵木(ませき、ませぎ、さくぎ)。 木の柵のこと。住居、集落の周囲を囲み、猪、外敵や風雪を防ぐ役目。軍事的に馬の侵入を止めるために用いられたりした。
  • マセ。牛小屋の閂。マセボウ、マセンボウともいう。

ませ、まぜ系名字の全国ランキングと世帯数

須崎春夫氏は NTT の電話帳の 電子版を集計したおよそ10万種類の日本人の名字の順位と該当世帯数を検索できるシステムを 公開されています。以下は、須崎氏のHPで検索した「ませ、まぜ」系名字です。但し電話帳では 正確な読みは不明であることをお断りしておきます。また分類は便宜的なものです。

「間瀬」系名字

順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数
1497間瀬270320643二間瀬5521659間瀬田50
31129間瀬口2632449間瀬戸2441184間瀬場15
51911間瀬木955330世間瀬856443綿間瀬8
63900間瀬垣568300三間瀬468300木間瀬4
73500間瀬羽387500〜99923久間瀬1   

「馬瀬」系名字

順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数
9961馬瀬18540696馬瀬戸1645009馬瀬口13
68300馬瀬山487500〜99923小馬瀬(こませ)1   

「真瀬」系名字

順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数
8510真瀬23836988真瀬垣1946318真瀬田12
60200眞瀬650335真勢10

「柵木」系名字

順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数
6774柵木33947031桝木123464822
35997真関2087500〜99923眞関147031桝木12
36931升木1931400舛木2654392間関8

その他

順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数順位漢字表記世帯数
35458満瀬(ませ、みつせ)2156399万瀬86255瀬間(せま)379
15878瀬(せ)8663900猿(ませ)573500間狭3
63900馬関573500間狭373500摩瀬(ませ)3
39919間々瀬1615193間世田9373500間狭3

ホームページを御覧になった方からの情報等

  • 「間瀬木(ませぎ)」さんから、古い墓には「柵木」と記載されているとの連絡
  • 「満瀬(ませ)」さんから、先祖は「三瀬(みつせ)」と名乗っていたとの連絡。「満瀬(みつせ)」と呼ぶ例もあるらしい
  • 須崎氏HPの検索では「馬背」という名字は該当するものが無い

間瀬・真瀬・馬瀬姓の全国分布

添野正明氏のHPでは 電子電話帳による全国の同姓世帯の網羅的調査を引き受けてくれます。 このユニークな調査システムを作り上げ、実費程度で調査を行っていらっしゃる添野さんに感謝します。 おかげで始めて全国レベルの「ませ」姓の分布が明らかになりました。 以下はその結果と、このホームページにまとめた情報を併せて出した現在の私なりの結論です。

平成11年度電話帳データを使った検索結果。電話帳に記載された件数を世帯数とみなしていることに注意。 全国市町村数 3,368、全国世帯総数 47,064,704、世帯当たり平均個人数 2.7人(平成12年度国勢調査)。

全国同姓世帯数推定人口数該当市町村同姓世帯数/全国世帯総数
間瀬2587世帯6980人5020.006%
真瀬231世帯623人1060.0005%
馬瀬176世帯475人1070.0004%

「間瀬」姓に付いて

「間瀬」姓の分布はやはり『愛知県の半田市亀崎町を中心とする東海地方の沿岸部』が圧到的です。 これは江戸時代に尾張藩を中心としたの徳川ゆかりの諸藩に散らばった『三河間瀬一族』、もしくはそれに何らか のつながりのある方達の子孫と思われます。愛知県三河部には三河松平家由来と思われる間瀬家が半田地方についで存在します。大阪府枚方市(13世帯)、香川県高松市(9)世帯は主家の改易等で 移動した間瀬家ゆかりの方達でしょうか。大都市に相当数世帯があるものの、人口比では圧到的に低く、明治 以降の人口移動の結果と思われます。しかし長野県、岐阜県、山梨県にも世帯数は僅かですが孤立して分布 しているのがみて取れます。三河間瀬一族が木曾氏の流れをくむと称えていたらしいことと併せて考えると 興味深いといえます。

一方神話時代に遡る人名・地名例がある『新潟県新潟市』(20世帯)の存在が気になります。ひょっとして三河間瀬一族 の本家でしょうか?また平家落人伝説を伝える『隠岐郡西ノ島町』(8世帯)の間瀬一族の存在が注目されます。これも 三河間瀬、越後間瀬と起源をともにするのでしょうか?

全国的に散在する間瀬という地名と間瀬姓の分布は殆んど関係が無いといえそうです。 多めに見積もっても全国で1万人を越えることは無いようです。

「馬瀬」姓に付いて

「馬瀬」姓は密度だけでみると岐阜県に中心があるように見えますが、世帯数は僅かで見掛けだけのようです。 ある程度固まっているのは、富山市(7世帯)、四日市市(11世帯)、伊勢市(13世帯)、徳島市(7世帯)、 兵庫県川辺郡猪名川町(5世帯)だけです。『伊勢市馬瀬町もしくは松坂市早馬瀬神社』に因む苗字である 可能性が高いといえるでしょうか。ここでも馬瀬という全国的な地名と苗字の分布は殆んど関係 が無いということが見て取れます。多めに見積もっても全国で千人を越えるこ とは無いようです。

「真瀬」姓に付いて

真瀬姓の発祥の地は『栃木県下都賀郡野木町』と断定して良いようです。「まなせ」と呼ぶ例もあるようです。 中世常陸国を領土としていた小田家に真瀬姓の家臣がいたことが資料に残されています。小田家は筑波 地方も所領としていたことを考えると、茨城県筑波市の地名真瀬とともに、関係がありそうです。但し、 地名が先か、名字が先かは分かりません。多めに見積もっても全国で千人を越えることは無いようです。 地名としての登場頻度とは逆に、真瀬姓の方が馬瀬姓よりも若干多いのが意外 ですが、領主の名前ということで、ある関連地域の方が一斉に名前を名乗ったという事情が考えられます。

結局三大「ませ」姓(間瀬、馬瀬、真瀬)の起源は異なるといってよさそうです。地名としては起源が異なるかどうか 未だ判断不可能です。私は名字及び地名としての馬瀬と柵木の起源は同一ではないかと推測していますが、もとより確証はありません。